2013年4月26日金曜日

作品の筆跡について


筆跡の多い作品と、そうでない作品のどちらが美しいかについて考える
この問いに答えは無いし、あくまで僕個人のあたまの整理。

小学校くらいの頃、両親に連れられ何度か日展を観に行った。

記憶に残っているのは「写真のような」「絵に見えないような」絵だ。
街の風景画とか、椅子に腰かける人物画とかね。

そういう絵は描くのすごく大変なのだろうな、
すごいなー上手だなー綺麗だなーと思いながら見ていた。
反対に、ピカソの1時間で描きました~みたいな作品や
ミロや芦雪や、一見かわいいような絵は、誰でも描けるんじゃないの?
なんて思っていたので正直あまり印象に残っていない。

予備校ではギッチギチに線を重ねまくったデッサンを得意としていたし
とにかく手を入れまくれば絵やデザインは良くなっていくと信じていた。




高2


大2


大学在学中にその価値観は逆転することになる。

自分の手で作品をつくるとき。
とりわけ木材や金属からなにかを削り出すとき
そこに宿っていた「生命」のようなものが一太刀ごとに消えていくのを感じた。

もう視覚から嗅覚から触覚から、その素材が死んでいくのを痛いほど感じた
(これはもちろん自分の技術が未熟なためである)
自分の作るものが木とか石とかの美しさに敵うわけないことを理解した。

3年生の時、スーパーで捨てられた野菜を回収して炭化するという作品を作った。
「触らないこと」で「美しいものを作ること」を強く意識した作品だった。


炭化させることは素材の生命を奪うことだったのだろうか。
痛んで捨てられた野菜は本当に死んでいたのだろうか。
生まれて死ぬという輪廻を一時停止された野菜たちは
僕の部屋で朽ちることなく、その姿を留めている。

(ふつうは腐って無くなっちゃうんだよ)



そんなことを考えていたらあっという間に大学4年生になり、
また絵をかき始めた僕は、いかに手を加えずに絵を完成させるか、
ということに主眼を置くようになった。


手を加え過ぎないことのメリットは
1)余計な情報が排除されてメッセージが際立つこと。
2)短時間で仕上がること。
3)描き直しが容易であること。



デザインスケッチにおいては速いことが重要。
脳の、形を考える部分が活発な状態を保ったまま
ドンドン描き進めていくと、頭の中と紙の上で相互に形が整理されてくる。
だいたい頭の中の形を一発で紙に描き出すなんて凡人には無理なので
いかにたくさん描いて形を整理できるかがデザインスケッチの肝だと学んだ。



イラストは描き直しで強くなる。
完成させないと見えないおかしな部分というのがよく発生する。
そういう時は1から書き直すのが一番イイと思っている。


精神的には一番キツイけど、その分よくなる。
それを繰り返しているうちにどんどん線が洗練されていった。

この絵は30枚くらい描きなおした。




インターネット上で強い絵というのが存在すると思う。白黒の、線が太い絵とか字がそのひとつ。


これは拡大・縮小による劣化や、ディスプレイ環境の違いによる色の劣化が少ない。
上の写真はiphoneのカメラでテキトーに撮ったけど、絵がちゃんと見えていると思う。
これが劣化の少ない絵。


これはブログを始めてから5年間ずっと検証を続けているので今のところ
自信をもって言える。そしてこれはインターネットに限らない話であり、

平面に留まらない話でもあると思っている。




大学を卒業してデザイナーになった。
家電メーカーは大量の金属を削って型を作り、
何千個ものプラスチック部品を、大量の石油を原料にして作る。
その形を考えるのがデザイナーの仕事だ。


例えば僕が美しくない形をプラスチックに与えてしまうと、
そのプラスチックは誰からも愛されない、可哀想な存在になる。
美しい形を考えるということは、そういうことだと思っている。


そもそもメーカーが自分たちの存続のために
数年後にはゴミになる物をこんな大量に作り続けている現状がマジで理解できない。

これは余談だけどプラスチックの原料である石油は、太古の微生物の死骸なのだそう。
生きていたものの死骸を集めてものを作っているのだ。痛々しく悲しい。

ものを作る人間はそういう責任を負っていると勝手に思って日々の仕事に臨んでいるが
おそらくこの会社でそんなことを考えている人は少ないし

見て見ぬふりをしている事実が恐ろしい。
向き合う。

(リンク先より転載 廃棄家電でゴミの山ができてしまっているインドの風景写真)
 

プロダクトデザインにおいて、
手数の多いデザインと、そうでないデザインのどちらが美しいか

結論から言えば後者だ。たぶん、今の家電は。人が考えた形など所詮、
無意味な形なのだと思う。
理に敵った形を探すことが自分の使命だと思うようになった。
最近ようやく。


かといって理とか、わかる筈がない。
自然の摂理?理屈?義理?まだ大きすぎてなんだか掴みどころがないけれど

野菜を炭化したときもそんな感じだった。
前より少しわかる気がする。


そんないろいろを改めて心に据え、日々を過ごす。
あと自分の作品を精一杯愛そう、と思う。

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