2012年3月5日月曜日

前回のわたしのポストにけいたくんから返信をいただきました。
話題の中心は以下の部分


(わたしの前回のポストから抜粋)

デザインスケッチとプロダクトデザイン


大学でデザインスケッチを学びショックを受けました。独特のマナーが受け入れられず、プロダクトデザインの選択を後悔したりしました。まじで。デザインスケッチは下絵です。デザインスケッチは第三者に作りたい形態を説明するために描かれ、それ自体は作品になり得ません。デザインスケッチはプロダクトデザインの下図に過ぎないんです。


だからデザインスケッチは絵画として見たら全然サッパリ面白くない。面白い必要がないんです。絵画がロックミュージックだとしたらデザインスケッチは美術館の音声ガイドみたいなものです。わぁ言い得た感。


(けいたくんのポストから抜粋 引用元 Miyakojima Factory )


僕は、現在の「いわゆるデザインスケッチ」は、何かおかしいと思っています。
本来、上記したようなさまざまな目的を果たすメディアであるスケッチが、思い込みや勘違いによって、その可能性を狭めてしまっているような気がする。
具体的には、「製品の完成予想図をかっこよく描く」という一つの機能を注視するあまり、他の機能のことを忘れているのではないかとさえ思います。あくまでも空想ですが、日本メーカーのデザイナーは、80年代初頭に海外から入ってきた「超かっこいいビジュアル」を忘れられないのではないでしょうか。
(画像)
超かっこいい。
しかしそれは、デザインスケッチの機能のいち側面でしかありません。
これらの絵は未来の環境やプロダクトのイメージやフォルムを魅力的に伝えているという点で機能的ですが、「形を定義する機能」「考えるツールとしての機能」などは全く持っていない、ある意味では必要十分の絵です。
なのに、このときのインパクトがあまりに強かったために、「『見せる絵』以外も、かっこよくないといけない」「ものが描かれる以上は、正確なプロポーションに見えるようにしなければいけない」「カチっとした、シャープな絵でなければいけない」などなど、さまざまな強迫観念が植え付けられてしまった。そして、未だにそこから脱出できていないのだと思います。
草野くんが書いていた、”独自のマナー”というのは、このことではないでしょうか?
逆に、今挙げたようなものでなくても、魅力的でよく機能するデザインスケッチはたくさんあります。
(画像)
上は吉岡徳仁の、下はブルレック兄弟のデザインスケッチです。
二つとも、プロポーションが正しいかどうかも分からないし、きちっとものの形が描かれているわけでもない。ですが製品の美的なエッセンスをよく伝えているし、デザイナーの思考を強力にドライブしているという点で、十分に機能的です。しかも、さっきのスケッチとはまた違うかたちで、超かっこいい。
このようなスケッチを見ていると、デザインスケッチに対する先入観がちょっとずつ崩れていくような気がします。
自分の課題として、「いわゆるデザインスケッチ」の価値をきちんと認めた上で、先入観を取り除きスケッチ本来がもつリッチさを、なんとかして獲得したいなーと思っています。
スケッチの価値は、「機能すること」。
だから、求められる機能によって、デザインスケッチはいくらでも形を変えることができる。
ロックミュージックにも、音声ガイドにもなれると思うんだけど、どうかなあ。


引用おわり

さて、わたしはけいた君のポストを読み、自分の意図を補い、整理し、明確に言語化してもらえた気分でした。ロックマンは博士にあたらしいロックバスターをつけてもらった!みたいな!ありがとう!ロックマンやったことないけど!

”80年代初頭に海外から入ってきた「超かっこいいビジュアル」を忘れられない”論は革新的ですばらしいです。絵を描くとき、過去にどこかで見た表現をなんとなく流用してしまうこと。意図的であればいいけれど、絵が複雑になるほど自分の気付かぬところに混じりこんでしまうこと。気をつけなくては。


折角なのでもうすこしデザインスケッチ話を展開します。
けいた君が吉岡徳仁やブルレック兄弟を例にあげて紹介してくれたデザインスケッチを、わたしもすごく大切に感じています。ただ自分の中ではイメージドローイングの部類に入れている絵です。右脳的な情報量が多いからでしょうか。デザインスケッチは左脳をたくさん使う感じがします。全部言葉で説明できるような。なんとなく、今思ったんですけど。実際いま仕事で使う絵は基本的に全部言葉でも説明できるようにつくっています。そういう意味で音声ガイド的なのかな。

自分にとって「デザインスケッチ」の定義は大学の授業で教わったり、参考書で紹介されているマーカー・スケッチのことだな、と再認識しました。プロダクトデザイン業務のなかで最低限必須なスキルとして学びました。デザイナー・エンジニア・マーケティング等の役職をまたいで対話するための共通言語です。海外で生活するために英語を習得するのと同じです。

もちろん仕事でイメージドローイングの絵も使うことはあります。これは英語だけじゃなくてダンスもできたほうが外人と仲良くなれるのとおなじです。こっちの絵のほうが素直でフレンドリーだもんね。

大学時代デザインスケッチの表現を模索していて、イメージドローイングを描くようになりました。きっかけは大学3年の夏に1週間目隠しをして生活したことでした。「感覚をひらく」がテーマの研究で、感覚をひとつ閉じたら、ひとつなにか開くだろ、となんとも安易な発想で実行しました。研究内容発表の際、目が見えない状態を表現するために脳内のぼんやりとした色やかたちを描いたのがはじまりです。空想の漫画を描くのとは微妙に違って、実際に生活していて脳内におきた絵を思い出して描く感覚です。

デザインのためのドローイングも、ものをつくりながら「本当はこういう感じがいいのに」と浮かんだイメージを描きだす感じがします。

それから印象深いのは宮崎駿監督の「ポニョ来る」という絵です。監督は映画をつくる際最初に何枚もイメージボードを描き、並べてから絵コンテを起こしてゆくのだそうです。「ポニョ来る」を描くところがドキュメンタリー番組で取り上げられていたのですが、これがデザインスケッチに似ていました。イメージボードは絵画ではないけれど映画の本質のようです。すごい。





最後に音声ガイドについてすこし。わたし音声ガイド好きなんです。プロの語り手の声ってどきどきするんです。子供にも大人にもわかりやすく美しい言葉づかい。似たような感動が、外国人の会話を生で聞くときです。日本語が母国語の自分にとって、日常の一場面に不意に鼓膜を震わす英語、中国語、韓国語、フランス語、、、その美しさときたら!彼らは生まれたときから彼らの母国語をトレーニングしてきた、いわばプロフェッショナルです。意味は解らず音として聞こえるから一層感動的なのかもしれません。どんな楽器よりもうつくしい。

他人を魅了する表現技術はきっと、歴史上の素晴らしい作品について知ることと、自己の体内にある経験値や身体の発達度合いがうまくバランスしたときに発揮されるんじゃないかなと、そういえば目隠ししてた頃思ったなぁ。





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